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テクノ黎明
1979年頃といえば少し変わった音楽であれば、何でもかんでもテクノポップと紹介されて
いた時代だ。
NHKの夕方6時から放映されていたパラエティ番組「600こちら情報部」で画期的な
テクノポップ特集が2度放映されのだが、「P-Model」や「ヒカシュー」や「プラスチックス」に加え「ARB」や「リザード」といった畑違いのバンドも紹介された。
現在でも「テクノとは」とその定義を求めると、その解釈は多岐に渡り実のところ「?」な状態であろう。
テクノとはその言葉が世に出た時から音楽のスタイルや思想を狭く定義するものではなく「なんとなく」な雰囲気を漠然と表現した言葉であったことが伺えるエピソードである。
81-82年頃にはそういった漠然としたシーンにもカテゴリーが設定されるようになる。
思想やスタイルやアプローチの違いからそれぞれに柵が作られ始めたワケだ。
当時レコード店の店員としてそのプロセスに少なからずかかわったことが今となって悔やまれる。
混沌とした78-81年頃の「何でもあり」の時代は格別に愉快で面白かったのだ。
四半世紀を過ぎて思う。
ここに一本のカセットテープがある。「600こちら情報部」をテレコで録音したテープだ。
そのエンディングで出演者全員の参加による「600こちら情報部」のテーマの演奏である。
テクノポップというカテゴリーで集めたバンドで「I
shall be released」のようなことを狙った
企画であった。
リズムボックスとシンセに差し替えただけのとりたてて特徴のない演奏なのだが
試み自体が何とも安直で痛快。
良い時代であった。
2004/6/17
GMはなぜ俳句になれなかったのか?
室町時代に成立した俳句は、とんでもない文学スタイルだと思う。
17文字という限られた文字数の中に季節を表す言葉を入れることが必須という窮屈なルールの中で「心象」や「映像」を描写し表現し生活臭まで感じさせるというスタイルは最小の文学と呼べるものでシンプルであるがゆえの無限の奥深さを感じる。
表現しきれなければ言葉を足し説明を増やせばすむだけであるはずなのに
それができないスタイルになっている。
しかもこの俳句というスタイルが15世紀の連歌、16世紀の俳諧の発句から発展したというのだ。ようするに発達とともに使える言葉を少なくしていったわけだ。
1982年に成立したMIDIは1991年ローランドの主導のもと128音色を標準音色として標準化され音源同士の互換が保たれることとなった。標準語が策定されたわけだが同時に表現のルールが定められたとも言える。これをGeneral
Midi(GM)という。
しかしローランド、ヤマハという2大メーカーによる拡張規格の登場により発展的な方言を産み出すこととなる。
幅広い音色は幅広い表現につながると考えがちであるから音楽家には大歓迎されたのであるが互換性は保てなくなった。規格競争は過激になり1000を超える音色が搭載された。
しかし互換性はノート情報やベロシティ情報などに限られ満足に再生するにはそれぞれの持つ互換モードに設定しなおさなければならなかった。
さらにGMはGM2と進化をし複雑で巨大な規格となった。
「互換性」は「ルール」である。その縛りで表現の違いを楽しむこともアリだと思うのだ。
縛りの部分があるからこそ個人の表現を楽しむことができるとも言える。
ようするにワンメイクレースのおもしろさである。
MODやリバースのファイル、PSG音源、着メロなど同様の楽しみ方ができるものはたくさんある。
WMAのMidiプレーヤーはそんな楽しみ方を楽しめるツールだ。
ネット上のMidiファイルを再生していて「こりゃすごいゃ」というファイルに遭遇する。
限定された再生環境でそれぞれの表現を俳句的に楽しめるなと思った。
残念なことにネット上Midiファイルは著作権上の問題から消えつつある。
着メロも音源自体が進化しこのような楽しみが消えつつある。
2004/6/15
テクノポップとの遭遇
ポップスに目覚めたのは中学1年。「ベイ・シテイ・ローラーズ」の頃。ミーハーな女子を横目にディープ・パープルとキング・クリムゾンなどを聞きまくっていた。ベルボトムの黒ジーンズに長髪、アイドルはリッチー・ブラックモア。とはいうもののエレキギターは買ってもらえず、たまたまあった妹のアップライトピアノを弾いたのが鍵盤楽器との最初の出会いだった。
高校にはいって親父がACETONEのオルガンをどこからか入手。とりあえずレスリーはないもののロックキーボードの教則本を片手にジョン・ロードのコピーをはじめます。
そんな時友人と立寄ったいきつけのレコード店で目に付いた怪しい新人バンドのレコードをたのみこんで視聴させてもらった。
その新人バンドの名前は、、、P-MODEL。

怪しい曲は、、、「美術館であった人だろ」
>>SOUND
はじけるようなシンセと繰り返されるチープなオルガンのフレーズそしてわけのわかんない歌詞。友人と場所柄もわきまえず大爆笑してしまった。
私のテクノポップ初体験は「笑い」から始まったのだ。
まもなくイエローマジックオーケストラのファーストを手に入れた。
長髪がトレードマークではさみを持って追いかけてくる教師との追跡劇を楽しんでいた私は、YMOのファーストを持ち床屋へ。
「すいませせん。こんな髪にしてください。」
「もみ上げ切るんかいの」と店主。「ばっさり直線になるように」と私。そして初めてのシンセサイザーRoland
SH2の購入。
さらにAcetoneのオルガンをピンクにペイントしたことはいうまでもない。
この日からテクノポップとシンセの人生がはじまった。時に西暦1979年の秋のことであった。
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